神はなぜ試練を許されるのか?
私の兄弟たち。さまざまな試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなた方は知っているからです。(ヤコブ1:2-3)
この御言葉を理解すると、さまざまな試練を通っても、喜びとする事ができます。神は私たちのことを何でもご存知です。しかし、なぜ、神は私たちの信仰を試されるのでしょうか。それは、私たちが霊的に試されていることに気付かなかったり、理解していないからです。学校や会社では個人を評価するためにテストや面接があります。しかし霊的なテストは、誰かがあなたを評価するためではなく、あなた自身が、自分の信仰を知るためにあるのです。私達は神の子とされても、日々の歩みの中で「自分は大丈夫!」と、確信があるかのように高く評価することがあります。ペテロがイエスに「…私は決してつまずきません(マタイ26:33)」と言ったようにです。
神のみこころは、ひとり一人が、自分はどれほど弱いものかを知り、神に頼る者になることです。アワナクラブに集う子どもたちが常に御言葉をもってどんなテストがあっても受け入れられる子どもたちであって欲しいと、祈っています。
カポンポン デロン(インマヌエル チャーチ 牧師)
そこに愛はあるんか
「あんた、そこに愛はあるんか」。これを読みながらテレビコマーシャルのフレーズを思い浮かべた方もいると思います。本当の愛の意味を知っているクリスチャンにとって、これはいつも自問すべきことばではないでしょうか。
一切のことを、愛をもって行いなさい。(1コリント16:14)
愛なる神の御子であるイエスさまは、行いにおいても、ことばにおいても、思いにおいても、いつも愛がありました。それは、弟子であっても、悲しみや苦しみの中にある人であっても、霊的なことに関心のない人であっても、罪を犯した人であっても、障がいのある人であっても、自分に反対する人であっても、どんな人に対しても愛のある対応をされました。
クラブに来ている子どもたちは、イエスさまの弟子のようにリーダーに従う子どももいますが、悲しみや苦しみを抱えていたり、霊的なことに関心がなかったり…、イエスさまが出会ったような様々な子どもがいます。あなたのクラバーのような人にイエスさまはどのように愛のある対応をされたのかを考え、次のクラブでそれを実践してみてはどうでしょうか。
Awana主事 鈴木 悟
初めての体験
そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。マルコ10:16
先日、とつぜんスマホの通知が一切されなくなってしまいました。電話の受信だけができるようでしたが、これではいろんなことに支障が出てしまいます。生まれて初めての体験ですので、うろたえてしまいました。
とにかくネットで調べることにしました。すると、こんな目に遭う人がたくさんいるようです。「設定のこのボタンはオンですか?」というようなチェック項目がいくつかあって、すべて当てはまりません。そんな時はバックアップから復元するそうです。そうするにも手順があって、とても不安でした。
子どもたちも友だちやお母さんたちに誘われてAwanaクラブに初めて来るとき、とても不安なんだろうと思います。私も高校生の時、友だちに連れられて初めて教会に足を踏み入れました。すると、玄関で横山牧師がニコニコと私を迎えてくれたのです。その時の光景は50年近く経った今でも覚えています。初めて教会に来る子どもたちは一大決心をして来ているのです。私たちはどのように子どもたちを迎えているでしょうか? ニコニコとイエス様のように子どもたちを迎えましょう。
江川 克巳(西日本担当Awana主事)
信仰生活を導くナビ
「およそ300m先、右方向です。」「〇〇町を右です。」引っ越しをした私にとってカーナビはなくてはならない相棒です。 カーナビを使わずに目的地に向かった日の事。いつもナビが「左です。」と教える交差点で、私は右折した方が目的地に最短距離で行けると思い右折しました。けれども目的地にたどり着けず結局、ナビを使って目的地を目指す事になりました。
この出来事を通して、御言葉に従わず自分の経験や思い込みで行動した結果、痛い経験や失敗した事を思い出しました。そして、カーナビが私を目的地に導いたように御言葉は信仰生活を導くナビであると思いました。
あなたのみことばは 私の足のともしび私の道の光です。詩篇119篇105節
子ども達が幸いな毎日を過ごす事ができたらと思います。けれども学校や家庭、友達との人間関係の中で心配な事や困難、不安や悲しみ、誘惑などに直面する事があると思います。そんな時、御言葉が子ども達を励まし、希望や力となるようにと思います。御言葉が神さまの御心の道へと導く希望の光となるように祈りつつ子ども達に仕えていきましょう。
Awana主事 田中直美